小山肆成顕彰碑

えびね温泉周辺の紹介

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小山 肆成( こやま しせい )

文化4年(1807年) — 文久2年(1862年)
江戸時代後期に京都で活躍した医師。通称は敬介、号は蓬洲(ほうしゅう)。
日置川中流・周参見組の久木村出身(現白浜町)

生涯と業績

出生と修学

文化4年(1807年)、徳川頼宣入国時に関東八大豪族の一つで地士の家系・小山家に生まれる。

文政5年(1822年)、兄・小山文明が京都で医療就業に励むも急逝。16歳頃、兄の志を継ぎ上京。兄の師、岡田南涯の下で儒学を、 後に宮廷医である高階枳園に師事し、医学を修める。

京都烏丸蛸薬師南に「東風館」を建設し開業。植物・薬草の分類(本草学)にも精通した。

天然痘との闘い

天保6年(1835年)
— 疱瘡(天然痘)の流行 —

有史以来、日本はもとより世界中で猛威を振るった天然痘であるが、熊野地方も例外ではなく、 とりわけここ日置川からはその惨状を記す書簡が多く届いたとされる。また、甥一家をもこの病によって失った肆成は、 「疱瘡退治」を決意。以降生涯を賭して、天然痘への対策、及び研究に尽力した。

天保13年(1842年)
— 種痘研究と『引痘新法』 —

アジア各国では古くから軽度の疱瘡を敢えて発症させる人痘法が知られており、日本国内においても成功例が確認されていたものの、これは重症化する懸念があったとされている。

より安全かと思われていたエドワード・ジェンナー(イギリス)の牛痘法が中国へ伝わり、邱熺が著していた『引痘略』を師の高階枳園から入手。和訳した『引痘新法全書』を京都・大坂・江戸で出版したが、この時点では未だ日本国内で人に接種可能な牛痘を得ていない。

わが郷里の熊野でも、天然痘を鬼の如く恐れている...病人が出れば深い山の中に小屋を建て隔離し、身内の者は看病に就く。その者が感染し倒れると、次の者も看病に出向き、また感染する。この様にして天然痘患者が一人出れば一家親族が全滅する
— 『引痘新法全書』追記より —
弘化4年(1847年)
— 予防と啓蒙 —

著書『引痘 不再染論』では、天然痘は伝染するも、一度免疫を獲得できれば、以後再感染することはないと啓発している。

嘉永2年(1849年)
— 牛化人痘苗(ぎゅうかじんとうびょう) —

日本で初めて、天然痘予防弱性ワクチンの実験に成功したとされる。

肆成が目指した独自の引痘

人痘法や牛痘法を参考に改良した、より安全性の高い痘苗を作ろうとした。

『人痘を子牛に接種し、更にその疱瘡を採取し人に接種して効果を得る予防法』

信念と社会的批判

身分を超えた医療

当時、引痘は生命を救う良い医術であっても、一般庶民に用いるのは良いが、身分の高い者に獣種等を使用してはならないとして非難されている。

肆成はこれに対し、「龍骨、犀角、鼈甲など古来から多くの禽獣は薬として服用されている、生命を救い病気の治療するのに家柄や獣種は関係ない」と述べた。

まだ危険とされた牛痘接種を慎重に導入し、接種を安全に行う体制を整えるべく邁進したという。

主な著作

• 『引痘新法全書』 — 人痘法及び牛痘法について記述

• 『引痘 不再染論』 — 天然痘の免疫獲得について啓発

• 『引痘宜用国産論』 — 引痘は国産を用いるべしとする論

• 『引痘新法全書付録』 — 読みやすい仮名混りの解説書

後世への影響

京都で56歳の生涯に幕を閉じた肆成。その業績を後世に伝えるため、地元有志により平成20年(2008年)に「小山肆成顕彰会」が設立されている。

和歌山県の医学史では、紀北の華岡青洲(世界初の全身麻酔手術)と並び称され、
「北の青洲、南の蓬洲」と、その功績が伝えられている。

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